本文へジャンプ
竹中工務店

岡野寛次  OKANO Kanji

1902年(明治35) 生まれる
1925年(大正14) 神戸高等工業学校を卒業後、竹中工務店入社
1951年(昭和26) 九州支店初代設計部長

「重さと質感」をデザインした建築家

岡野寛次は「浪華高等商業学校(1935年)」、「樟蔭東高等女学校(1938年)」を始めとする学校建築や映画館などの設計を多く手がけますが、代表作であり傑作は、鐘紡の兵庫工場の一角に建てられた「武藤山治記念館(1935年)」です。武藤山治氏は、鐘紡元社長であり、時事新報社長でしたが、帝人疑獄事件を暴いたことから凶弾に倒れます。岡野はカトリック教徒であった武藤山治氏のブロンズ像(朝倉文夫作)を中心に安置する空間として十字架の平面を採用しています。この建築では、モダニズムの魅力からあえて距離をとり、“重さ”や“質感”を生かして、テロに倒れた実業家の記念館という目的にふさわしい内省的な佇まいを獲得しています。

若き日の岡野が伊東忠太の下で作図した天井装飾

竣工まで3か月に迫る時期に「阪急ビルディング」(1929年)のコンコースを覆う大アーチの装飾の採用が急遽決定されました。竹中工務店から東京大学の研究室に派遣された岡野は、その大アーチの装飾のデザインを任された建築家・伊東忠太の下で若干27歳の時に図面化を担当しました。「西本願寺伝道院(1912年)」や「一橋大学兼松記念講堂(1927年)」など、東洋と西洋が融合した極めてアクの強い意匠デザインを残した明治の巨人・伊東忠太の下で過ごしたことは、若き岡野にとって強烈な体験となったと推察されます。

浪華高等商業学校(現存せず)
1935
大阪市

現在の大阪経済大学の前身であった高等商業学校です。1932年に開設した浪華高等商業学校が、改組。当時京都帝国大学教授であった黒正巌博士が私財を投入して再建したのが1935年に竣工したこの建物です。竣工後に昭和高等商業学校として再出発しました。

武藤山治記念館(現存せず)
1935
神戸市

1934年3月9日、鐘紡の元社長であり、時事新報社長であった武藤山治氏が帝人疑獄事件を暴いたことから凶弾に倒れます。その遺徳を偲んで43000余名の鐘紡従業員の浄財を集め、武藤の活動の拠点であった兵庫工場の一画に記念館を建設することになります。

岡野はカトリック教徒であった武藤山治氏のブロンズ像(浅倉文夫作)を中心に安置する空間として十字型の平面を採用、内外観ともに軽快なモダニズムからは距離をとり、"重さや質感"を大事にしたデザインによって宗教的な雰囲気を醸成しています。円弧と直線が交叉したダイナミックなデザインと開口部まわりの緊張感のあるプロポ-ションが特徴的です。