DESIGNWORKS_Vol46
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Interview031つ目は、その建物を使う人々、訪れる人々の眼差しでつくるということです。先ほど述べた、そこで働いたり食事をしたりする人々がどのような体験をするのかというミクロな視点とも重なる部分があります。つまり、内部からの視点を大切にするということですね。2つ目は、その建物を使う人々の多様性をおおらかに許容するということです。家族を構成するのは性別や年齢、行動や思考の異なる人々です。読売テレビの場合は、報道の方がいれば美術の方もいますし、番組出演者を迎えたり、さらに街の人も訪れたりします。その多様で多数の人々が交流するという広い意味で、家族的な場所と言えます。梅田の計画もその意味で同じですよね。歩道に立って街を眺めていると、本当にたくさんの属性を持つ人たちが行き交っています。そのような多様性を引き受けて、居心地のよい家庭のような場所を作ることが建築には必要でしょう。3つ目は、敷地と建築の密接な関わりです。いわゆる住宅を考えるときには、こちら側に公園があり緑がよく見えるとか、傾斜地なのでここに玄関を設けようとか、住む人の身体感覚を通して建築と敷地が非常に密接に向かい合うことになります。もし計画が難しい土地であったとしても、最終的に住宅ができたときに「この場所にこの家を建てて本当によかった」と家族が思えれば、設計がうまくいったと言えるわけです。それは、住まいに限らずすべての建築に当てはまるはずです。 住まいはあらゆる建物に必要な要素を凝縮して含んでいる。だから、用途に限らず「住まい」の視点を導入できるということですね。倉方 そうです。そして「住まい」に関する重要な4つ目の側面は、クライアントの想いに応えること、もう少し具体的に言えば、クライアントの誇りとなる住宅を設計するということだと思います。実際に住む人がそこでの暮らしに満足する。これが何よりも建築設計の基本であると、最近ますます強く考えています。建築の世界では、個人と社会という二項対立が設定され、どちらが重要かという文脈で議論されることが多くあります。しかし、そのような単純な問題ではないのではないでしょうか。建築家が個性的なクライアントを通じて自己実現をすることの是非とか、ワークショップやコミュニティの場を設けて社会性のある建物を設計することの正当性とか、そういう議論ではないのです。そのような論点以前に、クライアントという視点が必要不可欠です。もちろん、設計の与条件としてのクライアントの要望にただ従っていればよい、と言っているのではありません。大切なのは、設計が始まる前にではなく、建築ができあがった後にクライアントが満たされた気持ちになることです。先ほどの敷地の話で、「この場所を選んでよかった」と思えることと同じですね。クライアントが「この建物は自分自身で考えたものだ」とさえ感じ、いかにその建物がクライアントの誇りになっているか、設計者ではなくクライアントが饒舌に語る。それが建築設計の最高のゴールだと思います。そのために必要なのは、クライアントの最初のリクエストに単純に従うことでもなく、プロフェッショナルな立場から一方的に押し付けることでもありません。設計者とクライアントとの本質的な対話なのです。私が建築を住まいと捉えようとしているのは、このような住まいの特性からです。そのような意味で、読売テレビは番組制作工房とオフィス、歩道整備計画は飲食店舗ですが、いずれも「住まい」に必要なものを持ち合わせている作品だと感じています。情報化社会における設計者の役割 クライアントや利用者、敷地が潜在的にもっていた可能性が、設計者が媒介となることで顕在化する。できあがった後は、建築や建築家の存在は逆に潜在化して、人や場所の可能性だけが見えるようになる、ということですね。倉方 設計者がそのような役割に徹するほど、可能性はより強く顕在化します。歩道からどのようにセットバックさせるかとか、どのように庇を設けるかとか、街路に面したファサードはどうあるべきかといった事柄を、ミリ単位で検証し、丁寧に素材を選定しながら空間を作り上げていく。それはある意味で非常に基本的な設計行為なのですが、可能性を顕在化するためには、そのような地道な手法で進めるしかないのです。新しい企画を打ち出したり、大々的にワークショップを開いたりすることも有効かもしれませんが、それらはあくまで設計手法の一つであって、設計者の役割の中心ではないのですから。 歴史的に見て、設計者の役割はどう変化してきたのでしょうか。倉方 これまで話したような設計者の媒介と
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