DESIGNWORKS_Vol49
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Interview04今後豊かな生活交流拠点だけでなく、教育や研究にもフィードバックしていくような発信力を持った場になれば、将来計画にも大きく影響を与えそうですね。そのための布石と捉えることもできます。   建築を考える上で、建築計画という概念をどのようにとえられていますか。千葉 僕は建築を作ることは、すでに世の中にある様々な事象・現象・ものの関係をどうやってもう一回発見的に再定義するかということに尽きるんじゃないかと思っています。その関係が変わるだけで、世界が全く違って見えることに、新しさを感じます。僕が建築教育を受けた時代は、ポストモダニズムやデコンストラクションなど、様々な潮流がありました。そこでは「建築の空間だからこそできることは何か」という議論は外に置かれていて、表層やマテリアルの問題ばかりが前面に出ていました。いわゆる建築計画というところに対しては、何の提案もできていないし、結局表層やマテリアルは、すぐに消費されてしまう。だから建築計画を考えていきたいという思いが強くなったのだと思います。時代を超えて残るもの、賞味期限が長い建築を生み出すには、計画的なところまで立ち返って考えなくてはならないと思ったわけです。ただ一方で、僕は従来の建築計画学はやはり機能論的な側面が強く、もっと生身の人間の身体的な側面にも目を向けるべきだとも思っていました。人間のふるまい方は人それぞれですし、文化圏が違えば全く違うふるまいがあるわけですが、一方で人間だからこそ変わらない身体を介して生起する関係性もある。そういうことに対し、建築の骨格に相当するところでまだ発明の余地があるんじゃないかなと思っています。例えばオフィスビル一つ見ても、プランのレベルで言うと、ミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルからそう大きく変わっていない。それ以降は結局表層か形だけの展開で、発明と言えるような提案がないと思うんです。何かその根本を問い直すことをできるのが、建築の力だと思います。ちなみに僕の事務所の名前は、あえて「計画」という言葉を使っています。設計事務所じゃなくて、計画事務所にしたのは、そういう意味も込めています。   建築の在り方によって人と人の関係性を変えられるんじゃないか、ということに興味があるのでしょうか。千葉 そうですね。人のふるまいと空間はセットだと思っています。空間が変わると、人のふるまいも変わってくるということはいつも実感しています。最近レクチャーでよく話していることがあります。それは森田芳光監督の「家族ゲーム」という映画の1シーンです。あんなふうに、家族が横並びでご飯を食べるなんてことは、恐らく世界中探しても無いことじゃないかと。もちろんあれは家族関係に対するユーモアと皮肉から生まれた風景ですが、やはり家族はみんな向かい合って食べますよね。畳に座るとか椅子に座るとか、文化圏による違いはありますが、家族で食事をする風景というのは世界で共有しうる形式ではないかと思うのです。文化や地域によって違うところ・変わらないところをもう一度きちんと考えるのは、意味のあることだと思います。もちろん昨今のコロナ禍のように、社会を揺るがす出来事が起きると、横並びで食べることが日常になってしまったりする事態にも陥りますが、人間が人と集まることに喜びを感じることは、変わることはないと思います。その集まり方を空間によって誘導したり加速したりする、そこに注力したいと思っています。   コロナ禍を経験し、建築を設計していく上でこれから考えていく、目指すべき方向において、大きく変わったところはありますか。千葉 自然災害が起きるたびにいつもクローズアップされるのは、人間同士の「距離」です。東日本大震災の時には、誰もがみんな口々に「繋がりを大切に」と言っていました。コミュニティをどうやって再建するかが当時は切迫したテーマでした。ただ昨今のコロナ禍では「離れる」ことが社会規範です。人間の個体間距離という、非常に生物的な側面が前面に出てくるわけです。でも、繋がりの中でも1人の時間は貴重だったし、逆に今ではみんながどうやって繋がるかに必死なわけです。人間には、繋がることも1人でいることも必要で、自然を前にそのことが顕在化するのは、人間も所詮生物なのだということを突きつけられているようなものです。そして建築は、そこに深くコミットできることに希望があります。それからもう一つ、これは僕自身にとって非常に新鮮だったのですが、僕はどちらかというとリモートで繋がることはあまり得意ではないのですが、大学もこのコロナ禍で授業は全てオンライン、未だに新入生の顔を直に見ていない状態が続いています。ただいざ

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