大阪梅田ツインタワーズ・サウス写真:母倉知樹大阪駅前地下道のリニューアル写真:母倉知樹でしょう。戦前に計画されましたが、戦争で計画が中断、戦後に完成をみました。今回、道路を挟んで隣接する新阪急ビルとの一体的な再開発により、動線がうまく整理され、移動空間としてもきれいに一新されたと思います。また、わかりやすくなりました。歩行者空間を、地上レベルにも確保しようという試みも成功しており、新しい時代を感じさせる都市建築だと思いました。まあ個人的には、梅田の地下空間が迷路であった時代が懐かしいですが。1 大大阪__商業都市から工業都市へ橋爪 そもそも「都市」は、日本語の表現では、「都」と「市」とを並置しています。「都」は「みやこ=宮がある処」で政治の中心、対して「市」 はマーケットプレイスすなわち市場になります。権力・権威が発動する「都」と人や物が交流する「市」が一体となって都市ということでしょう。ちなみに中国では都城・城市と言います。城壁に囲われたその内部に居住地があったので都城、城門の外側に市ができるので城市になります。日本の都市は、都と市の双方の機能を内包します。武士がつくった城下町にも町人や商人を集めて物流拠点を形成する。江戸=東京は権力を中心とした政治機能が集中し、大坂=大阪は商業のための経済機能が高度化していました。大阪は商売の町やと言われがちですが、幕府の直轄地でもありました。上町台地に武家地があり、対して船場や堀江などの各地から商人を集めて城下を構成しました。ユニークなのは中之島などの水路沿いには各藩の蔵屋敷が立地した点です。各藩が米の売買をするための出先を置いたことで、大坂は武家のビジネス拠点も立地する商業都市として発展をみました。大阪の本質は「水辺の巷」、すなわち「港」という機能にあると思います。古来、四天王寺や難波宮がこの地に建設され、遣隋使や遣唐使がここから出航しました。安土桃山時代や江戸時代に至るまで、大和や京から外国につながるゲート、人と物が交流するゲートとして地政学的に海に開かれた都市だったのです。瀬戸内海と淀川を経由して京に上る舟運のルートと、高野山や熊野、伊勢に至る街道の起点があり、人流、物流全ての面において結節点となっていました。八軒家や北浜、道頓堀などに宿屋街があり、また船場などの商家は堀に面して蔵を所有、荷上げを行っていました。いわば町全体が港の役割を果たしていました。 近世までの大阪は東西両面に開かれたグローバルなゲートであったと。近代以降ではいかがでしょうか。橋爪 近代になって大阪は「東洋のマンチェスター」などと呼ばれる産業都市に発展します。産業の集積とともに人口も急増します。隣接する町村を飲み込んで都市化が進行したことから、大阪は1925年に第二次の市域拡張を行いました。結果、東京をしのぎ世界でも第6位、「東洋一の商工地」となりました。市域を拡張し住宅地や工場用地を確保したことで、大阪は自身を「大大阪」と呼びました。東京の背後には関東平野が広がり、新たな都市機能である工業エリアは、市街地の外部に確保することが可能でした。しかし大阪平野は広くない。だから大阪は、都心の周縁部橋爪紳也氏に聞くLearning from Osaka-Kansai本号は「交流を誘発する場の創出」を特集しています。大阪公立大学特別教授・橋爪紳也先生に「大阪梅田ツインタワーズ・サウス(梅田1丁目1番地計画)」を視察していただき、お話を伺いました。 大阪における都市開発は、近代黎明期から戦前、戦後、現代に至るまでの時代フェーズごとに特徴があります。都市的規模の建物についても、ターミナルに帰属する商業建築、あるいは御堂筋や中之島に立地するオフィスというビルディングのタイプもあります。今日ご視察いただいた梅田1丁目1番地計画は、商業とオフィスと公共スペースが統合された最新の都市建築です。大阪の都市形成史の観点から、お話を伺いたく思います。橋爪 大阪市では、郊外私鉄が都市周辺部で各ターミナルを形成し、そこから都心へは大阪市営地下鉄に乗り換えるという交通形態、いわゆる「モンロー主義」を採用しました。その結果、ターミナルごとに盛り場が形成されました。人と建物と道路の関係を考えた場合、自動車が優先されていた高度経済成長期に、梅田は地下街のネットワークによって人の動線を形成してきました。複数の地下街と、公共の地下通路、各ビルの地下フロア、百貨店の地下食品売場が有機的につながっている。戦後から現代まで各ビル個別に地下フロアが計画され、それらが地下街で連鎖した。人の移動を優先する空間ではなかったので、地下迷宮のようであり、それが逆に面白かった。大阪の戦後の百貨店建築の代表的存在となると、やはり阪神百貨店こと大阪神ビルディング02InterviewInterview
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