10Interview伊東 スタッフもある時期までは結構そういう対話型でやっていたのですが、最近やっぱり年齢差のせいなのか、スタッフがおとなしくなっちゃって。なんかこっちが投げかけても応答がないケースが多いので、イライラすることもありますね。伊東 僕が菊竹さんの事務所にいた時に、松井源吾さんという構造家がおられて、菊竹さんとのミーティングを傍らで見ていたのです。その時に菊竹さんが松井さんからいろんなアイディアを引き出して、その瞬間に菊竹さんが閃くというやり方をしていて、相手からアイディアをもらって、その瞬間に、新しいアイディアが閃くという方法は、すごく理にかなっていると思いました。僕もどちらかというとあまりこうやれ、みたいなタイプじゃないので、人からアイディアをもらって、そのアイディアをベースにしながら、自分でそれを発展させていくようなタイプです。特に構造家の人たちとはミーティングを繰り返すことが多いですね。構造は、佐々木睦朗さんにお願いすることが多いのですが、佐々木さんとはかなり初期の、なんかこんなことをやってみようかっていう段階から投げかけて、佐々木さんとの対話の中でつくっていくという感じです。設備設計も「ぎふ」の時は、Arupの荻原廣高さんに入っていただいて実現したのですが、設備はいまだにそういう対話ができにくいですね。しかし、竹中工務店設計部の高井啓明さんには、設備設計で随分お世話になっています。家具やテキスタイルにしても、デザイナー側からいろんなアイデアを出してもらって、それに対してこちらがコメントしていくようなやり方が、自分には一番合っているなと思って意図的にやっています。 相談された側も自分のアイデアが採用されて一緒に作品をつくる感覚があるので良質な協働が成立する、だから伊東先生と一緒にやりたい。皆さん、そう思っていらっしゃるのでしょうね。「CapitaGreen」の竣工式があって、竹中統一名誉会長とお会いする機会があったので、「こういうアイディアで僕らはやりたいんだけれどもどうでしょうね」と話をしたら聞いてくださって「こんなシンプルなアイディアでできるんでしたら、いいですね」とおっしゃって、翌日「一緒にやりましょう」と言ってくださったのです。そこから先は本当に竹中工務店のチームはものすごく頑張ってくださいました。竹中名誉会長も頻繁に設計室に来られました。そんなことは珍しいと当時の担当者は言っておられましたね。当時役員の車戸城二さんとのミーティングの中で、木を使うというアイディアが出てきました。木を使うようにということは応募要項に書かれていたのです。でも、木造で数万人のスタジアムをつくるわけにはいかないし、どういう場所に木を使えるのか、天井に木を貼るだけでは意味ないと思いアイディアを出し合っていた時に、メインの柱を“燃エンウッド”でやったらというアイディアが出てきたのです。約1m50㎝の角材で高さ約20mの柱が72本並んだら壮観だろうと思いました。竹中工務店も、「これをやるからには会社が存在する限り面倒見ます」と言ってくださって、それでコンペティションに臨んだのです。しかし、そういうコンセプトは一切インタビューでも問われなかったですし、提出後のインタビューまでの間にものすごいたくさんの質問状が来たのですが、その質問もほとんどはお金の問題と、工期の問題だけで、「この場所にどういうものをつくるべきか」というような議論は全くなかった。木を使うことの意味も問われなかったし、ひたすら「工期が間に合うか」みたいなことと、「お金は予算の範囲でできるのか」といったことに終始していて、うんざりしました。結果的には予想通り負けて悔しい思いをしました。その頃にちょうど、水戸市民会館のコンペティションがあったので、ぜひもう一回“燃エンウッド” を使ってやってみたいと考えたのです。 “燃エンウッド”は、10階程度の高さのオフィスに使われている実績はありましたが、公共建築でも使ってみようということだったのですが、竹中工務店との協働 伊東先生と竹中工務店設計部が協働した初期の作品は、「大館樹海ドーム(ニプロハチ公ドーム)」(1997)です。木造建築から始まったとも言えますね。伊東 「大館樹海ドーム」の時は、作業所にすごく優秀な木谷宗一さんがいて、足場をつくらないで測量しながら、6mの木材部材を組み上げてくれました。本当に施工はすごかったです。構造設計の丹野吉雄さんからは、「球体にしてくれたら楽なのに、卵型にする意味があるのかな」みたいなことを言われながら一緒に楽しんでつくっていました。竹中工務店と一緒にチームを組んでコンペティションに臨むことも多くありました。その際、こちらもちょっと遠慮するんです。遠慮というか、勝手なことはできないなという感じで協働させて頂きました。設計コンペティションへの取組み 2015年の新国立競技場整備事業公募型プロポーザルのことを伺えますか。伊東 最初のコンペティションの時は、まだオリンピックを東京で開催することが決まっていなかったので、めちゃくちゃなルール違反があっても、一番派手なザハの案を審査委員長の安藤忠雄さんとしてはやりたかったのでしょう。結局それはお金がかかりすぎると拒否されたので、それなら既存のスタジアムを改装すればお金は半分で済むと提案し、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長や当時の文科大臣など何人かの人に案を送ったのです。ところが、全く無視されてあっという間に壊されてしまったので、悔しい思いをしている時に、二度目のコンペティションが行われることになり、なんとしてもそれをやってみたいと思っていたのですが、だいたい勝負が決まっていたのかわかりませんが、ゼネコンさんもやりたがらなかったのです。ちょうどシンガポールで竹中工務店と協動した
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